第5回 塩崎の対陣
永禄7年(1564)、謙信は5度目の出陣を前に、6月24日、春日山城内の弥彦神社に「武田晴信悪行の事」と題する願文を納めた。信玄がまたしても山県昌景に飛騨を侵略させたのである。飛騨の三木氏の以来を受けて、謙信は8月10日に川中島に出陣した。信玄もこれに応じて、塩崎に軍を進めた。両軍の対陣は67日間続いたが、すでに北信の大部分を制圧していた信玄は、謙信と戦おうとせず、謙信は関東の形成が気になるので10月1日帰国した。『川中島五箇度合戦の次第』に「信玄は謙信の勇才を憚り、謙信は信玄の智謀を恐れ、互いに大事と思慮をめぐらし云々」と記してある。
結末
12年間5度にわたる戦いはどちらの勝利だったのか。八幡原に先制攻撃を仕掛け多くの将を討ち取った謙信か、上杉軍をそのあと追い詰め敗走させた信玄か。豊臣秀吉は、「前半戦(午前9時)までは謙信の勝ち、後半戦は信玄の勝ち」という判定を下している。通説でも勝負なしの引き分けと見る向きが多い。川中島の戦いは5度とも、信玄の侵略がきっかけで起こっている。謙信はいずれも危機に立った武将からの依頼で出兵している。村上義清や小笠原長時らが旧領を回復したいという希望は、謙信にとっても越後の安泰のため重要なことだった。結局、川中島は信玄のものとなったが、多くの武将をうしなった信玄にとって苦い戦いであった。両者が長年にわたって無駄な戦をしている間に、織田信長は着実に天下取りへの基礎を固めていったのである。
両雄のその後
武田信玄は、上洛のため大軍をおこして西進したが天正元年(1573)、肺結核のため帰国。信濃の駒場で53歳の生涯をとじた。
上杉謙信は、天正6年(1578)、関東出兵のため領国中に大動員令を発し、軍勢の結集を開始したとき、脳卒中で倒れ、49歳でこの世を去った。
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