第2回 犀川の戦い
天文23年(1554)、武田、北条、今川の三国同盟が締結され、信玄は北信攻略に全力を傾け始めた。翌年弘治元年(1555)謙信は信濃に入って、善光寺の城山を根拠地とした。そのころ善光寺の別当栗田氏には、大御堂主の里栗田氏と、小御堂主の山栗田氏の両氏があって、里家は上杉方、山家は武田方に属していた。山栗田氏の栗田寛明は旭山城で上杉方と対した。信玄は旭山城に3千人の兵を投入し、自ら犀川の南岸に陣取って謙信と対峙した。勝つか負けるかを覚悟し、短期決戦に持ち込みたい謙信に対して、信玄は悠々として持久戦に持ち込んだ。対陣が3ヶ月になろうとしたとき、上杉の軍勢は長期の布陣にあせりはじめた。謙信は10月に軍規粛正のため家臣に5箇条の誓約書を書かせた。ついに両軍とも疲れ果て、信玄は今川義元に調停を頼んで10月15日和睦し終わった。この3ヶ月の間に両軍は7月19日に小競り合いをした他は対陣したままだった。
この合戦の翌年3月、謙信は高野山へ引退すると言い出し、家臣は驚いて諫め、謙信も思い直した。結果的にはこの引退騒ぎが上杉家の家臣たちに一致団結をうながすこととなった。この引退劇は謙信の演出ではないか、との見方もある。引退を思いとどまる条件として、家臣に連盟で忠誠を誓わせ、人質を春日山城に差し出すことを要求しているからである。

