第4回 八幡原の戦い
武田軍・・・「本隊」・武田信玄(41歳)、武田信繁(戦死)、武田義信、穴山信君、山県昌景、内藤昌豊、諸角昌清(戦死)、原昌胤、山本勘助(戦死) 「妻女山攻撃隊」・高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、真田幸隆 総勢2万人
上杉軍・・・「本隊」・上杉謙信(32歳)、長尾藤景、直江実綱、柿崎景家、北条長国、甘粕近江、本庄繁長、色部長実、新発田長敦、荒川伊豆守(戦死) 「信濃衆」・村上義清、高梨政頼 総勢1万3千人
謙信は死中に活を求め妻女山に布陣
永禄4年(1561)8月14日、謙信は1万3千人の軍勢を動員して、春日山城を発ち、8月16日妻女山に陣を構えた。謙信はこれまで3度信玄と戦ったが勝ちらしいものは得ていない。そこで今度こそ決着をつけようと妻女山に布陣した。信玄はこれに先立つこと1年、永禄3年に川中島を一望できるところに海津城を築いて、高坂昌信を城将にたてていた。謙信が陣を敷いた妻女山は、海津城のわずか南にあった。自ら死地に入ったのである。死地に自らを投じれば、必ず信玄が仕掛けてくると読んだ。そこで雌雄を決するという思い切った作戦に出たのである。一方、信玄は高坂昌信からの知らせにより、8月18日、2万の兵を従えて、甲府を後にし、21日塩崎についた。24日茶臼山を経て、29日海津城に入城した。海津城は越後に近く、妻女山は甲斐に近い。ともに退路を切断する形となった。相手を倒さない限り自分の領地には帰れない。それから、対陣は10日間続いた。上杉軍は兵糧が乏しくなり、兵の士気は次第に衰えてきたが、謙信は悠然として琴を楽しんでいた。
謙信は敵の策を読み密かに下山
海津城に入った信玄は、9日間まったく動こうとせず、両者とも智謀の限りをつくし、肚のさぐり合いをしていた。信玄は軍議を開いて、軍師山本勘助が提案した啄木鳥(きつつき)作戦をとった。軍勢を二手に分け、一方が妻女山に夜討ちをかける。そうすれば謙信は必ず下山して川中島に向かうに違いない。そこをもう一方の本隊が迎え撃ち謙信を討ち取ろうという戦略である。妻女山を襲う攻撃隊は、高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌等に従う、約1万2千。川中島で迎え撃つ本隊は、信玄をはじめ、弟の信繁、山本勘助等、約8千。川中島は「霧の名所」といわれるほど霧の発生が多い場所である。両者ともこれを利用しない手はない。9月9日霧が立った。ついに信玄が動いた。啄木鳥作戦を実行に移して夜明けを待った。しかし謙信はこの作戦を察知しており、9日深夜、夜襲隊が到着するはるか以前に、妻女山を下り、千曲川をわたり、10日午前5時ごろ八幡原に布陣していた。妻女山には武田軍を欺くため兵をわずかに残し、紙の旗をたて、かがり火をたいて、あたかも上杉軍が山頂にいるかのように見せかけた。信玄はこの戦略が見破れなかった。10日午前6時朝霧が晴れようとする頃、謙信の軍旗が見え、馬蹄の音が聞こえた。
裏をかかれた武田方の反撃
信玄は驚きあわてたが、上杉方が「車懸り(くるまがかり)の陣」を敷いたと判断すると、「鶴翼の陣」でこれに対した。しかし、上杉勢が1万以上を擁したのに対し、武田勢は1万2千が妻女山に向かっているため、8千の軍勢で分が悪い。しかも不意を突かれている。まず、信玄の弟信繁が討ち死にし、諸角昌清が討たれ、軍師山本勘助までもが壮絶な戦死をした。この間に謙信が信玄に切りつけ、信玄は軍配で受け止めたとの言い伝えがある。夜襲隊はどうしたか。行ってみたら妻女山はもぬけのから、見事に裏をかかれてしまった。しかし、初めのうちは、上杉勢が武田本陣まで攻め込み優勢だったが、奇襲隊が引き返したあと形勢は逆転した。今度は上杉方が押しまくられ、甘粕近江をしんがりにして善光寺まで引き上げた。信玄は追撃せず、八幡原の戦いは終わった。武田軍の戦死者は4,630人、負傷者は7,500人。上杉軍の戦死者は3,470人、負傷者9,400人であったといわれる。
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