2007年03月21日

川中島の戦い-第5回

武田信玄VS上杉謙信

第5回 塩崎の対陣

永禄7年(1564)、謙信は5度目の出陣を前に、6月24日、春日山城内の弥彦神社に「武田晴信悪行の事」と題する願文を納めた。信玄がまたしても山県昌景に飛騨を侵略させたのである。飛騨の三木氏の以来を受けて、謙信は8月10日に川中島に出陣した。信玄もこれに応じて、塩崎に軍を進めた。両軍の対陣は67日間続いたが、すでに北信の大部分を制圧していた信玄は、謙信と戦おうとせず、謙信は関東の形成が気になるので10月1日帰国した。『川中島五箇度合戦の次第』に「信玄は謙信の勇才を憚り、謙信は信玄の智謀を恐れ、互いに大事と思慮をめぐらし云々」と記してある。

結末
12年間5度にわたる戦いはどちらの勝利だったのか。八幡原に先制攻撃を仕掛け多くの将を討ち取った謙信か、上杉軍をそのあと追い詰め敗走させた信玄か。豊臣秀吉は、「前半戦(午前9時)までは謙信の勝ち、後半戦は信玄の勝ち」という判定を下している。通説でも勝負なしの引き分けと見る向きが多い。川中島の戦いは5度とも、信玄の侵略がきっかけで起こっている。謙信はいずれも危機に立った武将からの依頼で出兵している。村上義清や小笠原長時らが旧領を回復したいという希望は、謙信にとっても越後の安泰のため重要なことだった。結局、川中島は信玄のものとなったが、多くの武将をうしなった信玄にとって苦い戦いであった。両者が長年にわたって無駄な戦をしている間に、織田信長は着実に天下取りへの基礎を固めていったのである。

両雄のその後
武田信玄は、上洛のため大軍をおこして西進したが天正元年(1573)、肺結核のため帰国。信濃の駒場で53歳の生涯をとじた。
上杉謙信は、天正6年(1578)、関東出兵のため領国中に大動員令を発し、軍勢の結集を開始したとき、脳卒中で倒れ、49歳でこの世を去った。
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2007年03月20日

川中島の戦い-第4回

武田信玄VS上杉謙信

第4回 八幡原の戦い

武田軍・・・「本隊」・武田信玄(41歳)、武田信繁(戦死)、武田義信、穴山信君、山県昌景、内藤昌豊、諸角昌清(戦死)、原昌胤、山本勘助(戦死) 「妻女山攻撃隊」・高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、真田幸隆 総勢2万人

上杉軍・・・「本隊」・上杉謙信(32歳)、長尾藤景、直江実綱、柿崎景家、北条長国、甘粕近江、本庄繁長、色部長実、新発田長敦、荒川伊豆守(戦死) 「信濃衆」・村上義清、高梨政頼 総勢1万3千人


謙信は死中に活を求め妻女山に布陣
永禄4年(1561)8月14日、謙信は1万3千人の軍勢を動員して、春日山城を発ち、8月16日妻女山に陣を構えた。謙信はこれまで3度信玄と戦ったが勝ちらしいものは得ていない。そこで今度こそ決着をつけようと妻女山に布陣した。信玄はこれに先立つこと1年、永禄3年に川中島を一望できるところに海津城を築いて、高坂昌信を城将にたてていた。謙信が陣を敷いた妻女山は、海津城のわずか南にあった。自ら死地に入ったのである。死地に自らを投じれば、必ず信玄が仕掛けてくると読んだ。そこで雌雄を決するという思い切った作戦に出たのである。一方、信玄は高坂昌信からの知らせにより、8月18日、2万の兵を従えて、甲府を後にし、21日塩崎についた。24日茶臼山を経て、29日海津城に入城した。海津城は越後に近く、妻女山は甲斐に近い。ともに退路を切断する形となった。相手を倒さない限り自分の領地には帰れない。それから、対陣は10日間続いた。上杉軍は兵糧が乏しくなり、兵の士気は次第に衰えてきたが、謙信は悠然として琴を楽しんでいた。

謙信は敵の策を読み密かに下山
海津城に入った信玄は、9日間まったく動こうとせず、両者とも智謀の限りをつくし、肚のさぐり合いをしていた。信玄は軍議を開いて、軍師山本勘助が提案した啄木鳥(きつつき)作戦をとった。軍勢を二手に分け、一方が妻女山に夜討ちをかける。そうすれば謙信は必ず下山して川中島に向かうに違いない。そこをもう一方の本隊が迎え撃ち謙信を討ち取ろうという戦略である。妻女山を襲う攻撃隊は、高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌等に従う、約1万2千。川中島で迎え撃つ本隊は、信玄をはじめ、弟の信繁、山本勘助等、約8千。川中島は「霧の名所」といわれるほど霧の発生が多い場所である。両者ともこれを利用しない手はない。9月9日霧が立った。ついに信玄が動いた。啄木鳥作戦を実行に移して夜明けを待った。しかし謙信はこの作戦を察知しており、9日深夜、夜襲隊が到着するはるか以前に、妻女山を下り、千曲川をわたり、10日午前5時ごろ八幡原に布陣していた。妻女山には武田軍を欺くため兵をわずかに残し、紙の旗をたて、かがり火をたいて、あたかも上杉軍が山頂にいるかのように見せかけた。信玄はこの戦略が見破れなかった。10日午前6時朝霧が晴れようとする頃、謙信の軍旗が見え、馬蹄の音が聞こえた。

裏をかかれた武田方の反撃
信玄は驚きあわてたが、上杉方が「車懸り(くるまがかり)の陣」を敷いたと判断すると、「鶴翼の陣」でこれに対した。しかし、上杉勢が1万以上を擁したのに対し、武田勢は1万2千が妻女山に向かっているため、8千の軍勢で分が悪い。しかも不意を突かれている。まず、信玄の弟信繁が討ち死にし、諸角昌清が討たれ、軍師山本勘助までもが壮絶な戦死をした。この間に謙信が信玄に切りつけ、信玄は軍配で受け止めたとの言い伝えがある。夜襲隊はどうしたか。行ってみたら妻女山はもぬけのから、見事に裏をかかれてしまった。しかし、初めのうちは、上杉勢が武田本陣まで攻め込み優勢だったが、奇襲隊が引き返したあと形勢は逆転した。今度は上杉方が押しまくられ、甘粕近江をしんがりにして善光寺まで引き上げた。信玄は追撃せず、八幡原の戦いは終わった。武田軍の戦死者は4,630人、負傷者は7,500人。上杉軍の戦死者は3,470人、負傷者9,400人であったといわれる。
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2007年03月19日

川中島の戦い-第3回

武田信玄VS上杉謙信

第3回 上野原の戦い

せっかく和を結んだが、謙信の家臣であった大熊政秀が武田信玄の策略にあい武田方に寝返ったため、破れてしまった。謙信がこの宿敵を佞臣とか逆賊などと罵倒し、弘治3年(1557)信州更科郡の更埴八幡宮への願文に「武田晴信という佞臣が信州に乱入し、理由もなく万民を苦しめることは、神を恐れぬ蛮行である。晴信に恨みはないが、断じて許すことはできない。一団扇をもって信州に平和を取り戻し、天下に家名を興したい。」と訴えている。信玄は政秀を使って越中から越後を攻めさせようとしたが失敗。しかし謙信方の葛山城を奪取した。これに怒った謙信が信濃に出兵し、上野原で激突したが、両軍とも戦果をあげることができなかった。






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2007年03月18日

川中島の戦い-第2回

武田信玄VS上杉謙信

第2回 犀川の戦い

天文23年(1554)、武田、北条、今川の三国同盟が締結され、信玄は北信攻略に全力を傾け始めた。翌年弘治元年(1555)謙信は信濃に入って、善光寺の城山を根拠地とした。そのころ善光寺の別当栗田氏には、大御堂主の里栗田氏と、小御堂主の山栗田氏の両氏があって、里家は上杉方、山家は武田方に属していた。山栗田氏の栗田寛明は旭山城で上杉方と対した。信玄は旭山城に3千人の兵を投入し、自ら犀川の南岸に陣取って謙信と対峙した。勝つか負けるかを覚悟し、短期決戦に持ち込みたい謙信に対して、信玄は悠々として持久戦に持ち込んだ。対陣が3ヶ月になろうとしたとき、上杉の軍勢は長期の布陣にあせりはじめた。謙信は10月に軍規粛正のため家臣に5箇条の誓約書を書かせた。ついに両軍とも疲れ果て、信玄は今川義元に調停を頼んで10月15日和睦し終わった。この3ヶ月の間に両軍は7月19日に小競り合いをした他は対陣したままだった。

この合戦の翌年3月、謙信は高野山へ引退すると言い出し、家臣は驚いて諫め、謙信も思い直した。結果的にはこの引退騒ぎが上杉家の家臣たちに一致団結をうながすこととなった。この引退劇は謙信の演出ではないか、との見方もある。引退を思いとどまる条件として、家臣に連盟で忠誠を誓わせ、人質を春日山城に差し出すことを要求しているからである。






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2007年03月17日

川中島の戦い-第1回

武田信玄VS上杉謙信

発端

武田信玄の信濃攻めによって、領地を失った村上義清、小笠原長時、高梨政頼の武将たちは越後の上杉謙信を頼った。義侠心の厚い越後の謙信は、時をおかず信濃に出陣。天文22年(1552)のことである。謙信に出陣を決意させたのは、義侠心だけではなく、信玄に完全に信濃を統一されれば、越後と国境を接するため、謙信にとっては人事ではなかったのである。これが12年間5度に及ぶ川中島の戦いの幕開けである。


第1回 布施の戦い

天文22年4月、上杉謙信は村上義清を救援するため姨捨山北麓に姿をあらわした。塩田城にこもる村上勢を攻めていた信玄は、このため兵を引かざるをえなかった。謙信としては武田軍の北上をとどめて、村上勢を助けるばかりでなく、自ら信玄の圧迫を避けるためのけん制であった。同年8月、武田軍は1万の兵で塩田城を落とし、川中島方面へ向かうのを知った謙信は、8千の兵をもってこれに対し、八幡で衝突した。しかし、信玄は塩田城から出ず、謙信も深追いせず、9月20日越後春日山城に帰った。第1回めは両軍とも相手をうかがうだけに終わった。
posted by 合戦野郎 at 23:35| 川中島の戦い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする